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疲れた。
疲れて、しまった。
悲しい出来事があっても、「やっと記事のネタができたな」って、そうやって安心感すら覚える自分がいて。
そんなくだらない感性を抱えてしまった自分に、なんだかちょっと、ゾッとした。
自分の過去や現在。
できた傷や残ったあざ。
傷を縫い付けるどころか、はみ出す肉をえぐりとって、流れ出る血液で言葉を書いた。
「ほら、みんなも同じ気持ちでしょう?」
共感を得なければならない。それは一種の自傷行為にも思えたけれど、実はそれこそが、私の生きるための唯一の手段だった。
自分の傷口について、私のことなんて何もしらないどこかの他人が、賛否を話し合う。
「この子の生き方は間違えている」
「この子の過去はおかしい」
「いや、この子は正しいよ」
スマートフォンの中で繰り広げられるシェア合戦を見守る。 手のひらに収まった画面とにらめっこして一喜一憂することこそが、私の仕事で、生活だった。
そう、そんな毎日に。
そんな毎日に、私はついに、疲れてしまった。
気づいてもいなかった。
ある場所で「はっ」と気づくまでは、気づいてあげられなかった。
例えば東京の港区で開催された「すごい人がくる飲み会」。
会場で「誰ですか?」と聞かれた時、私は名前よりも特技よりもまず、Twitterのフォロワー数を伝える必要があった。
自分がどれだけ価値のある人間かを説明するための手段が、インフルエンサーにとっては「フォロワー数」なのだ。
「あなたは誰?どれくらいすごいの?私があなたと関わる価値ってあるの?」
いつもそうやって品定めされている気がした。いや、実際にされていたと思う。
東京という街で奮闘する彼らは、忙しい毎日の中で、意味のない出会いなど必要としていないから。
誤解をしないでほしい。私は東京が、好きだ。
生まれ育ったわけでもないし、なんなら3年弱しか過ごしていないけれど、離れると時々、ホームシックになったりもする。
「東京に『帰りたい』」って、涙ぐんだことだって、一度や二度じゃない。
それに港区は、かっこいい。渋谷だって、超クール。
でも、時々ちょっとせわしないその時計の針に、ついていけなくなってしまうのだ。
東京は、すべてに「意味があること」を好む町だ。
私はちょっとだけとろいから、そんな東京のことがほんのたまに嫌いになる。
さて、前置きが長くなってしまったけれど、
そんなこんなでちょっと疲れてしまった私がとった選択肢は、「逃げる」ことだった。
「逃げよう」
そうやって決めた私は、まだ一年以上契約が残っているデザイナーズマンションを解約した。
思い立ったが吉日。良い言葉だ。
私はその言葉通り、思い立った数週間後、「沖縄」に移住した。
令和を生きる若者よ、よく聞いておくれ。
現代においてとりわけ重要なのは、「うまく逃げる」スキルを持ち合わせているかどうかだ。
不器用で良い。だけど逃げることだけには器用であれ。
私は自分の人生にそんな教訓を掲げているから、逃げることにだけは、すこぶる器用さを発揮した。
東京での仕事に疲れ、SNSを見つめることに疲れ、幻聴まで聞いて、このままではどうにかなってしまうと感じ始めていたとき、私はハッとして、さっさと器用に、ぱっぱと逃げることを決めた。
どうして移住したのか。耳がちぎれるくらいに、よく聞かれる。
私は沖縄が好きだった。
那覇空港に降り立った時のあの湿気と、沖縄そばが、好きだった。暖かい空気と、たまに降る傘のいらない霧のような雨も好きだ。
好きだった沖縄に移住したいと恋人言ったら、彼も彼で「いいじゃん」と、言った。
人生において重要なのは「逃げるスキル」と「逃げることを許してくれる誰かをそばにおくこと」だ。
ただ、好きだった。大切な人も、同意してくれた。
移住した理由なんて、そんなもん。深い理由なんてない。そんなもんで良い。
必要な条件は、すべてがそろった。だから私は沖縄に、逃げたのだ。
さて、沖縄にはなんにもない。
いや、「ネオパークオキナワ」とか、「ナゴパイナップルパーク」はあるけれど、
東京のように徒歩数歩圏内にスタバが2つ以上あったりしないし、迷うことに疲れるくらいの数、小洒落たバーが並んでいたりするわけでもない。
だけどそこには、「なんにもない」があった。
人魚の涙の色をした海や、そこに生きる宝石箱からこぼれたような魚たち。
太陽を浴びて熱を帯びた青々しい名前のしらない葉っぱや、見たことのない毛の生えた動物、虫、それから、笑う人、踊る人、音楽。
この島には、私たちが日々欲しくてほしくて堪らない、「なんにもない」が許される、あたたかな空気と、色彩に満ちていた。
ある日、この島の小さなお祭りに行った夜、突然の豪雨に見舞われたことがあった。
バケツをひっくり返したかのような大雨に途方に暮れていたら、お祭りの会場にテントを立てて「モアイ(模合い)」をしていたおじいとおばあに「こっちにおいで」と招かれた。
そこには10人近い「金城さん」がいて、みんな、顔が似ていた。
明らかに違う顔と言葉を話すびしょ濡れの私が侵入してきたのに、誰一人として「誰?」とか、「フォロワー数は?」とか聞かなくて、
彼らはまるでずっと前から家族だったかのように、「びしょ濡れになっとるよ」と、私にありったけの親切をくれた。
具体的には、タオルで頭を拭いてくれたり、泡盛を振舞ってくれたり、それに合うおつまみを握らせたりしてくれた。
優しい。なんて優しいのだ。
怖くなかった。
知らない人たちに感じる距離や冷たい視線が、そこにはひとつもなかった。
「なんにもないけどさあ、シマ(島酒、泡盛のこと)と歌さえあれば、みな幸せよ」
多分、名前も聞かれなかったし、私もそれぞれには、聞かなかった。
ひとつだけ覚えているのは、出身を聞かれて「大阪です」と答えると、
「うちなんちゅの顔してるのに!(島の人と同じ顔をしているよ!)」と笑われたこと。
彼らは私の価値を、はかりたがらなかった。
私も彼らの価値を、はからなかった。
だって、ただただ大切だったから。
同じテントの中にいるその人たちが、温かくて、愛しかったから。
それは、私の忘れていた感覚だった。
多分、なんにもないんだろう。
これってきっと、何にも残らない時間なんだろう。
だけどそれが「無意味」だなんて、思わなかった。
私たちは島酒を飲んで、島唄を歌って、笑った。
沖縄の雨は、すぐに止むことが多い。
この時も一時間しないうちに、さっきまでの豪雨が嘘のように、からっとした青空が戻ってきた。
「ほら、すぐに晴れるっていったさあ」
おじいが笑って、みんなが笑って、私たちはテントから、外へ出た。
青空と一緒に、嘘のように七色に輝く鮮やかな虹が、ビーチ近くの公園から海に向かって、大きく大きく伸びていた。
写真を撮らないと……!と思って周囲を見て、そして、「はっ」っとした。
みんなが虹を見ていた。虹を見る大切な誰かの横顔を、見ていた。
本物の瞳で見ていた。
レンズ越しじゃないと、永遠に残すことはできないけれど。あの虹がかかった公園は、誰が見たって永遠に残したいような景色だったけれど。
だけど私はその時、スマホ越しにみる虹よりも、本物の瞳で虹を見ることを悩まずに選択する彼らのことを、心から素晴らしいと思った。
「ありがとう」
金城一家にそう告げると、一番年配な金城さんが、こう言った。
「また会おうね。いちゃりば ちょーでー」
いちゃりば ちょーでー。
一度会ったら、皆兄弟。
連絡先は、聞かなかった。だけどなんだか、またもう一度、会える気がした。
沖縄には、「なんにもない」がある。
私はエメラルドブルーの海を横目に家路につきながら、「なんにもない」がどれだけ贅沢なことか、噛み締めていた。
移住して数ヶ月。まだまだ沖縄ビギナーだ。
きっとこの島にも、私が知らない、知らずしては語りきれないことが沢山あると思う。
だけど私はこの島に来て、なにかはわからないけれど、具体的にはわからないけれど、
でもすっごく大切な、自分の心の「まんなか」がわかった気がして、息がしやすくなった。
この島にあるものは、多分全部、本物だ。
笑顔も、歌も、海も、怒りも、悲しみも、喜びも。
そのどれもをみんなが大切にして、愛して、「ほんもの」を守ってる。
「yuzukaさん、なんで沖縄が好きなんですか?」
時々聞かれるこの質問に、私はいつも、こう答える。
「ながめる景色全部、うそみたいに「ほんもの」だから」
なんにもない。なんにもないから、見えるものがある。
私が沖縄に残したいものって、多分そういう「なんにもなさ」なんだって、そう思った。
私はそんな沖縄が、好きだ。
2019年6月26日にRBCにて特別番組「おきなわMOSAIC」が生放送決定
おきなわマグネットが2019年4月から追いかけてきた「#残したい沖縄」プロジェクトではTwitter、Instagram両方で合わせて、5000以上のハッシュタグ「#残したい沖縄」を皆さんにご投稿いただきました。
それぞれ皆さんが残したいと思う沖縄の魅力をSNSで投稿していただいた内容を、2019年6月26日に放送される琉球放送(RBC)さんの特別番組「おきなわMOSAIC」にてご紹介いたします。
現代に生きる人々が、時代の変わり目にあって、何を大切にし、どのような沖縄を未来に残したいと願っているのか…
一人一人の思いをモザイクのように拾い集めて、新しい時代の「沖縄白書」を作るプロジェクト番組。新元号が発表される4月1日から投稿を募集し、6月26日のテレビ生放送に至るまで、琉球放送(RBC)では、テレビ・ラジオ・WEBで県内外、世界のウチナーンチュたちの「残したい沖縄」を紹介します!
ぜひお見逃しなく。
番組についてはこちらから